ロスコの風景

Untitled, 1953
Mark Rothko – Untitled, 1953
Mark Rothko - Untitled (Black on Grey), 1969-70
Mark Rothko – Untitled (Black on Grey), 1969-70
Photograph of Mark Rothko
Photograph of Mark Rothko

 ミステリー作家の高村薫さんがNHKの番組でロスコの作品(とくに晩年の)について「何も意味せず、何かの図形でもない純粋抽象」と語っていたそうだが、少なくとも美術の言葉としての抽象芸術 Art abstrait は、日本では通用しづらい概念だと私は考えている。

本阿弥光悦作「不二山」
本阿弥光悦作「不二山」

 理由は簡単で、日本人の美意識は、わざわざ外来翻訳語を持ってこなくとも、もとより抽象の美を規範としてきたからだ。
 抽象絵画が生まれる何世紀も前から、江戸や京都の粋人たちは、窯の炎がもたらす茶碗の釉薬の抽象的な美しさを「景色」と呼んで愉しんできた。「景色」は古くは「気色」と記され、工匠の技に加え、窯の炎がもたらす偶然性が生み出す、文字どおり、妙なる気の色を指す。
 光悦の白楽茶碗、銘「不二山」は、雪のかかった富士山に見立ててそう銘されたのではなく、まずもってその気色が美しかったから銘が与えられたのであり、後世の私たちがそれを愉しむうえで銘に縛られる義理はない。ロスコの絵に見立てるのも自由なのである。

 ロスコはカラーフィールド・ペインティングの作家として紹介されることがあるが、ステラやニューマンのマスキングテープによる鋭いエッジや筆跡が見えないフラットな平塗りとは対照的に、塗りムラがあり、分かたれた矩形の境目は模糊としている。
 具象物を一切借りずに抽象概念だけで思索する学問に「数学」がある。1も2も3も実体としては存在しない。高村さんの言う「純粋抽象」を数学的と解するなら、むしろステラやニューマンこそ純粋抽象であって、ロスコの作品はその筆致から作家の息づかいさえ感じられ、非数学的な、極めて手仕事的なものが混入している。
 統計をとったわけではないが、フィールド・ペインティング系の作家で、おそらくロスコは日本人にいちばん人気が高いのではないだろうか。街のカフェなどでロスコの絵(ポスター)に遭遇する率はわりと高い。少なくとも日本人の多くにとって、彼の絵は難解ではないらしい。陶器の景色を愉しむように、個々人それぞれの見立てで愉しまれているのを感じる。

 サバンナで誕生した人類が、明けても暮れても眺めていたものは、天空という無辺大の矩形と、大地という無辺大の矩形だった。この天と地のふたつの矩形が接するところの地平線は、四方八方、どこまでも果てしなく、氷河期による大移動の時期を迎えるまで世界そのものだったはずだ。そして、人類が陸地の果てまで到達すると、そこには大海という新たな矩形が現れた。
 上下に連なるふたつの矩形は、人類の原初の風景 Paysage primitif であり、未踏の風景 Paysage sauvage でもある。